仙波二郎安家

仙波氏館跡・長徳寺(仙波町3-31)
 喜多院や光西寺のある一帯を小仙波町というが、その南側が仙波町である。もとの「大仙波村」で、小仙波と一緒であった。仙波郷の発祥の地であり、鎌倉時代に仙波氏一門が地頭として支配した根拠地である。
 仙波氏の居館としては、大仙波に「堀ノ内」の地名があり、台地の端上にあって喜多院末寺長徳寺がたたずむ。喜多院から直線距離にして東南一キロ強にあたり、所々に指導標も立っている。『新編武蔵国風土記稿』によると「永正甲戌(1514)天台沙門実海」の名が、古い過去帳に記されていたという天台宗末寺である。境内にはもと土塁があったといわれる。
 「仙波氏は村山党の出自で鎌倉幕府に仕え、代々この地方の地頭職としてこの地を領有していた。後年仙波二郎は建武中興の時、新田軍に従い武蔵武士の面目を発揮した。長徳寺はその館址で、持仏堂として建立、発展したものである」
 とは、川越市の史跡立札である。
 仙波氏の名を『東鑑』に求めると、文治元年(1185)十月、南御堂(長勝寿院。鎌倉、源義朝の墓のある所)に仏師成朝新刻の丈六阿弥陀仏供養会に、臨席する源頼朝の供奉人中に仙波次郎、さらに建久元年(1190)十一月、頼朝最初の上洛随兵中、先陣第四番目に仙波次郎、中陣三十一番三騎の中に仙波平太がある。建久六年三月、東大寺供養の行列には仙波太郎が加わっている。
 その後二十数年を経て承久三年(1221)の承久の乱には仙波太郎、同左衛門尉が宇治橋合戦で負傷し、仙波弥次郎も同じ日に傷を受け、三日後に死んでいる。宇治・勢多の合戦は、この乱を通じて唯一の戦闘らしい戦闘であった。おそらく同族一団となって最前線で働いたのであろう。
 それよりさき、『保元物語』には源義朝のもとに武蔵国住人、村山党に金子十郎家忠、山口六郎、仙波七郎と名をつらねている。白河殿の戦に金子十郎家忠(十九歳)が「いくさは今日ぞ始めなる」と名乗って、鎮西八郎為朝の矢面に立った話は有名だ。その時、山口六郎は三町礫の紀平次の右の肘を射、仙波七郎は大矢新三郎の左肩に一太刀あびせている。紀平次も大矢も、ともに為朝の名だたる郎等であった。これらの仙波氏は、たぶんこの仙波に生まれた土豪であろう。
 『平治物語』には仙波氏の名は出ていないが、義朝に従って敗れ、堅田の浦で主と別れて故郷に帰った東国武士の中に加わっていたことも想像される。その後二十年の間、力を貯えて治承の秋、頼朝の挙兵に応じたのであろう。




一番上の人形がその方。

4階建で3階と4階は、エレベーター式になっている。

へー、初めて知りました。