「子供の自殺」

今回ばかりは、今までのそれとはかなり環境が違っているように感じる。

学校が欲して止まない地位と名声、それが何処か違っていると感じながらも

併走してきた親たち。

簡単な方法ばかりを優先してきたのではなかろうか。

というか、安易な方へと進んできたのではなかろうか。

いじめによる自殺よりも、今回の大阪の高校生の自殺は

完全な学校側の罪であると思います。

この事件を知ってかしらずか、このジャーナリストが書いてることこそ

学校は原点から見直さなければならないのではなかろうか。

くたばれ、箱根駅伝! 大学スポーツ否定論

年末から新年にかけて、毎年スポーツの話題が花盛り……となる。それは、ある意味で当然のこと。スポーツ本来の意味(ラテン語のデポラターレDeporatareや、古フランス語のディスポルトDisport)は「非日常的な時空間」のことを表し、「日常の時空間=労働」から「離れる」ことを意味する。つまり「ハレの時空間」。大晦日や正月といった「非日常的なおめでたい日」にスポーツを行うのは「理屈に叶った行為」といえるのだ。

古代ギリシアのオリンポスの祭典も、陰暦の閏年(うるうどし)の閏月(閏の日々=8年に一度)と、準閏年閏年の中間年)に行われた。だから近代オリンピックも4年に一度、太陽暦閏年に行われるようになった。

とはいえ、日本の年末年始のスポーツ行事は、サッカーの天皇杯のようにあらゆるチームが参加できる「祭典」のようなイベントもあるが、箱根駅伝大学ラグビー高校ラグビーや高校サッカーといった、限られた特定の学生が参加する学生スポーツが(人気の)中心になっている。

とりわけ日本テレビの中継によって人気のある箱根駅伝は、正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」という名称だが、関東学生陸上競技連盟(東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・茨城県・栃木県・群馬県山梨県の大学によって構成される陸上競技連盟)の主催、読売新聞社の共催で行われる大会であり、世界レベルの大会でないことはもちろん、けっして全国規模の大会でもなく、誰もが分け隔てなく参加できる(実力さえあれば参加する資格を持つ)という「スポーツの基本原則」からは外れた催しといえる。

それについて、関西大学副学長の黒田勇氏は次のように書いている。
『東京のメディアがスペクタクルなイベントとして大学スポーツを過剰に演出し、ビジネスとしていることについては疑問もある。「箱根駅伝」はその典型かもしれない。長い歴史に敬意を払いたいが、あくまで、関東地方のスポーツ・イベントである。しかし、全国紙とテレビが全国的なイベントに作り上げていった。それにより駅伝の認知度が上がり、競技者が増えるという指摘がある一方、全国の高校生が関東の大学を目指すことになり、メディアでそれが喧伝されるほど、他の地方の陸上部は悔しさを募らせ、お正月の不快指数は高まる。全日本駅伝の大学選手権も開催されているが、メディアと社会の注目は、格段に低い』(『2013年版大学ランキング』朝日新聞出版発行より)

さらに黒田氏は、『東京の大学スポーツには長い歴史と伝統があり、アスリートが早慶戦を代表とする東京の大学にあこがれることは理解できる』としながらも、こう続ける。

『大学間競争の激化の中で、スポーツ選手も首都圏に集中する傾向がある。(略)一極集中はさまざまな弊害を生み出す。日本各地域でのスポーツ文化の崩壊もさることながら、人々の東京志向と地域間の序列意識の強化、そして政治・経済・文化の東京集中化が再生産されていくことになる』(同)

このような問題点の指摘に加えて、大学スポーツがマスメディアと結びつくことによって、自由なスポーツに関する言論(スポーツ・ジャーナリズム)が封殺される傾向にあることも指摘しておかねばならない。たとえば、日本の男子長距離界の実力が低下したのは、箱根駅伝にも一因があるのではないか、という指摘はスポーツ関係者やスポーツ・ジャーナリストの間ではよく聞く話だが、なかなかマスコミで取りあげらることはない。

母校の栄誉のために、必死になって(火事場の馬鹿力を出して)次の走者に襷をつなぐ行為や、急峻な山道を長時間駆け上ったり駆け下りたりする行為は、それをメディアが「命の襷」「山の神」などと誉め称える一方、現実的には学生ランナーの身体を痛めるだけで長距離ランナーの成長と育成にはマイナスでしかない、という人も多い。もちろん国際的に正式スポーツ競技とは認められないコースだろうが、そのような指摘がマスメディアで取りあげられることはない。

全文はこちら
くたばれ、箱根駅伝! 大学スポーツ否定論(玉木 正之) | NO BORDER - ノーボーダー | 境界なき記者団

                                2013年1月7日 玉木 正之