neglect


嫌な言葉ですね。

この単語を知ったのは、西淀川区女児虐待殺害事件で。

7月から公判が始まるが。

新法とシステム作りを呼びかけている団体がありました。

ひまわり署名プロジェクト

「ひまわりを探しているの」

そういって亡くなったそうです。

 ■子虐待の原因は家族崩壊にあり  【正論】立命館大学教授、大阪大学名誉教授・加地伸行

 子を喪(うし)なった悲しみ−唐代の元●(げんしん)が残した詩「子を哭(こく)す 十首」は凄絶(せいぜつ)である。「爾(なんじ)の母や溺情(できじょう)のまま連夜哭す」、そして元●は絞り出すように記す。「烏(ああ)、八子を生みて今や七(なな)無し」と。

 この世に生を享(う)けることだけでも奇跡なのである。その子を育てるのは、人間として歓びであり、感謝であり、責務ではないのか。

 にもかかわらず、親が子を虐待して死に至らしめる事件が相次いで起こっている。同様の事件は、史上、絶えずあった。しかし、昨今の報道件数は異常に多い。

 ≪「両性合意」のみの結婚で≫

 そのことについて、諸専門家が論評しているが、根本的原因の考察がなく、そのことばはどこか空(むな)しい。必要なのは、根源的問題の明示であろう。それを述べる。

 事の始まりは、現日本国憲法の第24条「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」にある。

 この条文は、自律・自立・自己責任に基づく個人主義を前提として始めて成り立つ。つまりは欧米思想に基づく結婚観、ひいては家族観なのである。

 この個人主義は、明治以来、わが国が苦しんできた思想である。東北アジアの伝統的な家族主義と対立する個人主義を、近代化の中でゆっくりと融合に努めてきていたのに、敗戦後、日本国憲法が家族主義を一気に否定し、個人主義第一を強制したのである。

 そのため、小学校から大学に至るまで、教員自身が体得していない個人主義を浅薄に形式的に教えてきた。この未熟さの結果は惨憺(さんたん)たるもので、この60年、個人主義とは似て非なる利己主義教育と化してきたのである。なぜか。

 ≪利己主義の抑止力を置かず≫

 人間は弱い。自律・自立・自己責任の重さに耐えきれず勝手な行動になりやすい。しかしそれを許さぬ抑止力として、欧米人は唯一最高絶対の神を置いてきた。キリスト教徒である。だがその信仰を持たないとき、抑止力は消え、勝手気儘(きまま)な利己主義者となる。

 戦後日本における個人主義教育は、抑止力を置くべきことを知っていなかったので、しらずしらず単なる利己主義者の産出に堕していったのである。

 その結果、〈婚姻は、両性2人の快楽のため〉いや、〈己れの快楽のため〉の家族となり、親や子の存在価値は低くなっていった。個人主義の前提の実現なき憲法第24条の成れの果てである。こうした状況の中で老親や子への虐待が生まれてきているのである。

 一方、東北アジアにおける日本人の感情としては、依然として道理としての家族主義がある。東北アジアでは家族主義は自然法(道徳・慣行)的であり、個人主義は実定法(憲法など法律)的であるから、日本人の大半は直観的に家族主義のほうが真面(まとも)だと思っている。また、家族主義は法律を越え、死生観と結びついていることを感じており、そう簡単に捨て去ることができない気持ちがある。では、その死生観とは何なのか。

 東北アジアでは、人間としての道を保持させる抑止力として、各家は自己の祖先を置いたのである。祖先が許さぬ−この抑止力がわれわれの道徳心を培(つちか)い、祖先の下にその家族・一族が団結してきたのだ。祖先祭祀(さいし)がその家の宗教となり血縁者の絆(きずな)となり、祖先から続く生命の連続を静かに、そして確かに体得してきたのである。

 死によって己れの個体(肉体)は消滅するが、己れの生命体(遺伝子)は子孫一族に受け継がれ残ってゆく。また精神的には、〈祖先となる己れ〉を子孫一族が祭祀してくれ、彼らの思い出の中に生き、忘れられることはない。

 ≪道徳・宗教教育から取り組め≫

 これが東北アジアの家族主義の本質であり、それはわれわれの死生観であり、われわれの宗教となっている。家族主義はわれわれの心の奥底に存在し続けており、たとい個人主義のみを法律的に強要しようとしても、家族主義は容易に消え去るものではない。因(ちな)みに、この家族主義は儒教に発するが、日本では日本仏教と融合してそこにおいて生きている。

 しかし、戦後教育では上述のようなことを一切教えないできた。そのため、日本では宗教もそこから生まれる道徳も教育されないままできている。第一、日教組は道徳教育の全否定ではないか。今や祖先祭祀も墓も家族主義的家庭の絆も細りつつある。この亡国的状況の中で、子の虐待死や老親の放棄が生まれているのだ。

 これに対処するには、長期的には地道ながらやはり道徳教育・宗教教育に文部科学省が本気で取り組むべきである。しかし日教組民主党政権には期待できない。

 中・短期的には、子を虐待死させる親は人間の屑(くず)であり厳罰を法制化すべきだ。抵抗できない乳幼少児童の殺人罪を別に設けよ。

 この法制化運動をしている「ひまわり署名プロジェクト」(産経新聞4月5日付大阪夕刊)の会員に私はなった。その広がりに可能なかぎり協力いたしたい。

 今日はこどもの日。この祝日を迎えられず旅立った薄幸の子たちの鎮魂に、謹んで本稿を捧ぐ。


>家族主義は自然法的であり、個人主義は実定法的である。

どちらのほうが、抑止するパワーをもつか

いや、どちらのほうが日本人の感情に即しているか。

自然法的な躾で、または実定法的な傷害致死で言い逃れできる

とは、考えていないような気もするのだけど。