嫁の実家の棟方志功 Ⅱ

なんだかんだで話が盛り上がり、嫁の実家の棟方志功を鑑定に出すことにしました。
鑑定は、東急デパートで月に一度しかおこなわれていないめため銀座の花田美術さんにお願いすることにしました。
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なんせ2m以上もあるものなので、やっと車に積み込んで花田美術さんに到着。
一度も写真に収めていなかったので、その場を借りてパチリ。

嫁の亡き姉の茶道の先生のお名前も知っているようでした。
志功は、かなり茶道に精通しており、この書も茶席の禅語だそうです。

てことは、茶室にかけるために書かれたものなのでしょうか。

この書の意味は、

雲在嶺頭閑不徹(くも れいとうにあって かん ぷてつ)
  『洞山良价禪師語録』に「白雲端云。若見得菴主。便見得洞山。若見得洞山。便見得菴主。見洞山則易。見菴主則難。不見道。雲在嶺頭不徹。水流澗底太忙生。」(白雲端云く、若し菴主を見得すれば、便ち洞山を見得す。若し洞山を見得すれば、便ち菴主を見得す。見洞山を見るは則ち易く、菴主を見るは則ち難し。道うを見ずや。雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。白雲端;白雲守端和尚(1025〜1073)。『禅林句集』七言対句に「雲在嶺頭閑不徹。水流澗下太忙生。」とあり、出典に「虚堂一報恩ノ終リ。禪類十二遊山門」を挙げる。『虚堂録』卷第一「嘉興府報恩光孝禪寺語録」に「退院上堂舉。高亭隔江見山。便乃趨而去。後來開法。承嗣山。師云。高亭只見錐頭利。不見鑿頭方。當時若過江來。豈止住院。有人會得主丈子。兩手分付。不然。雲在嶺頭閑不徹。水流澗底太忙生。」(退院上堂。舉す。高亭、江を隔てて徳山を見る。すなわち趨して去らば、後来開法、徳山に承嗣す。師云く、高亭ただ錐頭の利きを見るのみにして、鑿頭の方なるを見ず。当時もし江を過ぎ来たらば、豈に住院に止まらんや。人あって主丈子に会い得ば、両手に分付せん。然らず、雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。『禪林類聚』卷第十二「遊山」には「佛眼遠頌云。一回思想一傷神。不覺翻然笑轉新。雲在嶺頭閑不徹。水流澗下太忙生。」(仏眼遠、頌して云く、一回思想一神傷。翻然として笑轉た新なるを覚えず。雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。

なんだそうです。??

で、で、ということで他にないかと探してみましたら、ありました。

でも、サイズ的には半分ぐらいでしょうか。
もう少し調べてみますと、ありました。
富山県福光の光徳寺に、同様のものが。

びっくり。

このようなものをもらえるなんて、嫁の姉は偉大な方だったのでしょう。

花田美術さんにたぶん本物でしょうと言われましたが、そのままあずけてきました。

で、帰りにおなかが空いたので久しぶりに釜飯を食べてきました。

本当にここは、いつ来ても変わらない味です。

いつものように、セットの焼き鳥と漬物と赤だしと五目釜飯。

ただ若いときのように食べれないので、嫁とひとつの釜飯を半分づつ。

微熱があったけど、食欲は旺盛なままです。

鑑定結果は、また次の機会に。